死と別れ 死と学び

今は雨季の終盤で、畑ではトウモロコシやヒエ、落花生や唐辛子の収穫が始まっている。村の9割の家庭で自給作物だけで一年食つなぐことはできず、農繁期は空腹と重労働、また雨季特有のマラリアなどの病気の三重苦の季節である。

それだけに収穫の始まりは本当に嬉しい。空腹から解放され、重労働も終わりが見え始め、雨季が明けると病気も減る。そんなようやく見え始めた光を感じられるのがニジェールの村での9月である。

村の子供は午前中は畑仕事を、午後は家畜の餌にする雑草を集める。 雑草集めが終わって、どっと疲れた夕方、子供たちは川に水浴びをして、それから家路につく。実は乾燥地のニジェールの多くの川は雨季にしか水が流れない。一年の8か月は水が引いている。なので当然子供たちも泳ぎの達人ではない。

今日、私たちNGOのファシリテーターの子供二人が川でおぼれた。夕方の水浴び中に、川の深みにはまってしまったのだ。

一人はすぐに助け出されたものの、もう一人は助け出された時にはもう息がなかった。急ぎ村の診療所に連れていかれたが、死亡した。

診療所から家に遺体が帰ってきたのは夜の8時だった。そのまますぐに遺体は白い布にくるまれ、遺体を運ぶための木の籠に入れて、ゴザで覆われた。夜9時には村の住民が多く家に集まって、遺体の入った籠をみんなで歩いて村の外れにある墓地に運んだ。真っ暗な中、懐中電灯を照らして住民が墓地に穴を掘り、遺体を穴に入れて埋葬し、真っ暗な中イスラム式のお祈りを捧げた。そのあと住民は亡くなった子供の家に戻り、家の前でもう一度、真っ暗な中みんなでお祈りをあげて、埋葬式は終わった。

このようにニジェールでは、亡くなって1,2時間で遺体の埋葬が終わる。朝であれ夜であれ埋葬する。ついさっきまで生きていた人の姿が1,2時間で瞬く間になくなる。残された家族は遺体を抱きしめて鳴きしきる時間も、遺体を前に思い出にふける時間もない。

ただ、遺体を家に持ち帰り、白い布でくるみ、籠で遺体を運び、埋葬するこれら全部を自分たちでやる。生まれるときも死ぬときも、家族や親戚や友人やご近所さんの手でしっかり受け入れられ、見送られて一生をおくる。

明日は朝から葬式がある。朝から夕方まで親戚や近所が集まって、ゴザに座ってみんなで過ごす。ただ葬式の場にはこの子供の姿はもうない。葬式の場で参列者と遺族の間で交わされるハウサ語の言葉がある。

Yaya abinda ya samu (身に起こったことについてどうですか?)

Sai hakuri (耐えましょう)

実は毎年雨季に、この川で数名の子供が溺れ死ぬ。それでも子供は水浴びをやめない。大人たちも彼らが子供のころ、この川で水浴びをして、そのうちの何名かは溺れて亡くなった。

子供は大人と違い、リスク計算よりも好奇心が勝つ。それを大人が手を打ってリスク行動を回避することも大人の役割だが、一方で自分を制御しきれないがゆえに、好奇心に任せていろんなことに挑戦し、学んでいくのも子供の専売特許である。これを回避しすぎると、子供は学びきれない。

亡くなった子供の親戚の大人同士が話していた。

「川を渡って畑に行き、川と共に生きている。子供は川に慣れていかないと生きていけない。」

学ぶことと死ぬことは抱き合わせ

そのことをここの住民はよく知っている。

嫌われ者のジャバ

口先が尖ったネズミのような生き物ジャバ。 鶏やハトの雛の目を食べてしまうので、人間からは嫌われている。

ジャバは常に濃縮した雑巾臭とおっさん臭を混ぜたような強烈な臭いを放ちながら俳諧するので、ジャバが部屋に入ってくるとその臭いですぐに気づく。ジャバが通り抜けた後も臭いが残るので、夜部屋で寝るのも苦痛になる。

ネズミなら猫が食べるし、人間も食べるし、アヒルもつつく。ジャバはその強烈な臭いから、猫も人間もアヒルも食べない。なので、猫が出入りする場所ではネズミはいなくなるが、ジャバは平気でうろつく。ジャバは嫌われるが故に居場所を独占できる。

人は媚びを売って生きたりもするが、相手にどう思われようが関係なく堂々としている人には何も言えないものだ、ということも知っている。

ニジェールの村で、住民同士がいろんな駆け引きをしながら生きているのを見て、それからジャバを見ると、振り切れた嫌われ者というジャバのキャラクターに「こういう生き方もありなのか」と気づかせてもらう。

援助考~したたかさ

ある時、村人が私にこう言いました。

「以前来たフランス人は村に教室を建ててくれた。その教室を見るたびに私たちは彼のことを思い出すんだよ。だからお前も何か教室なり井戸なり建てたら、お前が去った後も時々お前を思い出すのに」

私は感動しました。

このフランス人と私を同じ土俵に並べることで、私の中に「あ、何も建てないと自分の価値が低くみられる」という気持ちがとっさによぎります。この気持ちを一瞬ぶらつかせるというのをいろんな場面で繰り返すと、確かに「ボロッ」と出してしまう人もいるでしょう。

さかのぼると、結婚式の散財に至ります。

昔、村の金持ちの家の結婚式で、金持ちが村人に服をばらまいて、それをもらった村人は金持ちの大盤振る舞いを褒めたたえ、よいしょよいしょしていました。そうすることで金持ちは毎回どんどん大盤振る舞い。

これは村人が知ってか知らずか、金持ちと貧乏人の間の格差是正に一役かっていたようです。

財布の紐が緩まない金持ち(と思われている私)に対して、気前の良い金持ち(フランス人)を引き合いに、財布の紐を緩めようとする戦略は、思考の賜物というより、何度もの成功体験の末に体に染みついた術にも見えます。これは生きていくための凄い力だと思うのです。

私はこの村人にこう言いました。

「私がいなくなったら、私のこと全部忘れてもらっていいですよ」

この村人、豆鉄砲くらったハトみたいになっています。無反応です。

私の返答が、彼のこれまでの経験の引き出しに当てはまらないものだったんでしょう。

状況の変化に伴って、それまで通用していた戦略が通用しなくなることがあります。

近代化をはじめ、急激な変化に身を置く今のニジェールでは、道徳から家族のあり方までこれまでの当たり前がどんどん通用しなくなってきています。それゆえに、私は彼らの経験の引き出しには当てはまらない存在であり続けようと思います。ある成功戦略を卓越していくことよりも、新たな戦略をどんどん生み出していくことが彼らにとって大切だからです。

そしてこれまで多くの援助はある意味こうして騙されてきたんだろうと思うのです。それを悲観的に捉えることもできますし、貧困に喘ぐ人々は清く透き通った善人であるべきだ像を押し付けることもできます。しかし、それよりもむしろ、こうした人間のしたたかさをうまく力に繋げていくのも援助の醍醐味なんじゃないかと思うのです。

子にとっての母

サハラ砂漠が近いこの場所では、6月から9月の雨季は一年分の食べ物を手に入れるための農業で忙しい。

雨と共にマラリアや下痢で多くの人が死ぬ。一年で一番忙しく、一番人が死ぬのがこの季節。

私のいる村でも、今年の雨期にたくさん人が死にました。多くが子供で、週に3,4回葬式があったりして、なんだか葬式が日常に組み込まれてしまった感じ。

毎日元気に水汲みしていた子供が、マラリアで突然ぱったり死んだりするのを見ると、「40過ぎてもう十分人生の時間の無駄遣いをしてきた自分が図々しくも生き残って、どうして働き者で気のいい子供がさっさと死ぬんだろう」とすごくもやもやする。生き物としては当然のことだけれど、どうも納得できない。

マラリアで高熱を出して、食べ物を一切口にしなくなって3日目の二歳の子供を抱えたお母さんは夜通し泣いていた。お母さんはこの子が死ぬかもしれないことを知っている。翌日子供を県立病院に連れて行った。病気を治すために行く病院だけれど、日本と違って、ニジェールの病院は病気が治ることを前提に行く場所ではない。だからお母さんはやっぱりこの子が死ぬかもしれないことを知っている。

3日間入院して、お母さんは子供を連れて家に帰ってきた。子供は生きていた。お母さんは笑顔で私に子供を抱かせてくれた。病み上がりの子供はぐったりしていて、少し痩せて、明らかに疲れ切った顔で嬉しそうにしてたお母さんは、病院で看病してた間、ほとんど食べてない。自分の身を削ってでもお母さんは子供を救おうとした。

ご近所さんや親戚が子供とお母さんの様子を見にたくさん押しかけた。

身を削ってでも守ってくれるお母さん役がいないと、人間はとっくの昔に滅びていたはずだと思う。

世界中にいるお母さんも、お母さん役をしている全ての人たちも間違いなく偉大。

トイレの胎盤

私の住む村には診療所があって、村の産婆さんが診療所で出産介助をしている。

だいたい子供が生まれたら、その日のうちにお母さんは子供を抱えて家に帰る。なんとも頼もしいお母さんたちだ。

ある日、私は診療所の敷地にあるトイレにいった。

トイレといっても小便用で半畳ほどのスペースの三方を壁で囲い、壁の下の方に小便が外に流れるように穴をあけてあるだけの場所だ。

そこに産後の胎盤がたくさん捨ててあった。

日中40度を超える暑さが相まって、血の匂いがもわっと立ち込める。

診療所とは言え、村なので診療所を囲む壁はない。だから子供たちは敷地内で遊んでいるし、通行人も診療所を通り抜ける。当然、子供たちはこの胎盤を見ているし、臭いも嗅いでいる。

日本の医療者が見たら、卒倒するかもしれないし、衛星や健康上、胎盤を外に放置するなんて問題だとして、対策を取るのは正しい。

ただ、一方で、子供たちは将来自分の身にも備わる胎盤を目で見て、臭いを嗅いで知り、村の肉屋が道端で牛やヤギを解体している時に見る内臓と同じようなものが自分の体の中にも詰まっているであろうことを知る。

家で産婆さんが子供を取り上げていた時代から、医療機関での出産に移行していったり、道端で肉をさばいていた時代から、食品衛生策として、建物の中で動物が肉になっていくようになると、いろんなものを手で、目で、耳で、鼻で感じ取って知る機会が減っていく。

正しいことづくしではなく、卒倒するようなことにも意味がある。

やってみなはれ教育

村のある農家さん宅で、お父さんが14歳、12歳、10歳の子供にそれぞれ畑の一部を分け与えて、「自分で耕して、生活に必要なものを自分で賄って生きてみろ」と言ってみた。

雨季に入り、子供たちはそれぞれに分け与えられた小さな畑に種をまいた。トウモロコシや唐辛子、落花生なんかを育てた。

今、雨季も後半に入り、収穫が始まった。子供たちの畑ではトウモロコシが採れはじめ、最初に採れたとうもろこしを子供たちは家族に振舞った。うまそうにトウモロコシを食っている家族を見て、子供たちは嬉しく、誇らしげ。

3人の子供はお父さんに「今度自分たちの畑を見に来てほしい」とお願いした。それだけ自分たちの畑に自信があるのだろう。人に認めてもらえることが喜び、というのは世界共通のようだ。

この先、唐辛子と落花生の収穫が始まる。子供たちによると、これらは市場で売ってお金にかえて、それでヤギを買って家で育て、大きくなったら売って服や生きていくために必要なものを買う、という計画らしい。こういうことを10歳の子が考えて、おもいきってやってみようとするのがおもしろい。当然彼らはこうした経済活動をしたことがない。やれそうな気がするからやってみよう、というだけで、うまくいく保証はまったくない。失敗して儲けが出なかったら、彼らは新しい服を買えず、今着ている穴だらけで茶色く汚れきった服をもう一年着続けることになる。

教えられたことをテストの点数として結果がフィードバックされるのとは違い、自分の思いついたことをやってみた結果が、自分の生活に露骨にフィードバックされる。これは正しい学びだと思う。

この「やってみなはれ教育」が、村の普通のお家で、何気なく「ポン」と思い付きで生まれたりする。この感じが凄く良い。

へそを曲げる

これはニジェール全体ではなく、私の住む地域周辺の人たちの特徴だが、彼らはよくへそを曲げる。

自分の主張が通らなかったり、ほしいものが手に入らなかったり、(本人の目から見ると)不条理に批判されたりすると、へそを曲げる。

そのへその曲げ方が消極的でおもしろい。彼らは相手に不愉快な理由を明確に伝えずに、一人でへそを曲げることがある。相手から距離を取ったりして、相手にも薄っすら異変が伝わる程度のへその曲げ方をする。ただ、相手は理由がわからない。相手にではなく、相手の身近な人に不愉快な理由を漏らしたりする。でも相手には直接伝えない。

そこで仲介屋が登場する。両者にとって近しい人で世話好きな住民が間を取り持って仲直りをさせようとする。ただ、この時に衝撃的なのは、問題そのものの解決をせず、問題の加害者も特定せず、とにかく仲直りだけすることがある。

問題には触れられていないので、加害者は自身が加害者と認識していないことがあり、被害者(と感じている側)は憤りがおさまらない。そこで仲介屋は「怒るのは良くない。我慢して」と被害者をなだめる。これで解決。

私から見ると、何も解決していないように見える。

「そんなんだったら、問題が起きた時に直接本人に伝えて、取っ組み合いの喧嘩になってもいいから問題そのものをさっさと解決した方が、健康的でいいんじゃないの?あと、仲介屋邪魔じゃない?」と私は彼らに伝えるが、彼らは賛同しない。

これには理由がある。共同体内部がある程度安定していて、よそ者が内部に入り込むことが少ない環境では、へそを曲げるような消極的なコミュニケーション方法でも、相手や周りが察してくれた。日本でいう「あうんの呼吸」とか「言わなくてもわかるよね」みたいな感じだろう。また、共同体同士の争いが多かった頃には、共同体内部の団結が命綱だった。言い換えると、共同体の分裂が最も危険なことで、それゆえに問題解決よりもはるかに仲直りの方が大切だったようだ。

でも今は時代が変わった。よそ者がたくさん入り、近しい親戚間での結婚が好まれた強制婚から自由婚になって、価値観を共有しない人が家族になっていった。「言わなくてもわかるよね」が通用しない人間関係になったにもかかわらず、人間はそんな器用にやり方を変えられないので、昔のままへそを曲げる。当然、全く伝わらない。

昔と違い、ある村が別の村を襲ったり、奴隷貿易もなくなった。それだけ対外的には安定した時代になったので、その安定の土台の上に、より良い生活を得ようとするならば、お互いに課題や問題を指摘し合って、対策を講じていけるのが良い。でも、心情的に内部が割れている状態は良くないと感じてしまうので、やっぱり昔のまま問題解決は置いておいて、仲直りだけしようとする。無理に団結しようとしても、もう共通の敵はそうそういないので、団結自体が不気味なものになる。。

結果どうなったかというと、周りのことなど気にせず、自分の思い通りにやりたい放題する人がのし上がってきた。そうしやすい環境になったからだ。それは人が変わったからではなく、条件が変わったのに人がその変化に追いついていないから起こった。

わかっちゃいるけど、やめられない

人間って、すごくよくできたポンコツでおもしろい。

足を切断したイサカ

私の住む村にイサカという54歳の男性がいる。

彼は農民で、私たちNGOのファシリテーターもしている。

そして村で5本の指に入るほどの貧乏だ。

4年前に行ったナイジェリアの出稼ぎ先で、足の痛みが始まった。それから寒い季節に足先や手先の痛みが時々おこり、とうとう今年の8月に両足首から下の痛みが激しく、夜も寝られなくなった。

村の診療所に行っても原因がわからず、そこから県立病院、そして州立病院にかかってようやく医者から両足首の切断、もしくは切断しないと死ぬと言われた。壊疽だった。

この村ではこれまで壊疽にかかった住民が何人かいた。そのうち数名は足を切断したが、壊疽がおさまらず亡くなった。残りの人たちは足の切断を拒んで、そのまま亡くなった。村の農民の生活は街中とは違い、農作業、水汲み、家畜の世話、家の修理など体を使う仕事で成り立っている。その農民が足を失うのはこれら生活のために絶対必要な仕事ができなくなることを意味し、社会保障がほぼないニジェールでは、足を失ったあとの生活支援は家族以外にない。足を切断しても死ぬかもしれない。足を切断した後の生活は死ぬより大変かもしれない。足を切断せずに死を選んだ人たちの葛藤はここにあった。

イサカは奥さんと子供がいて、一番上の子供はまだ20歳。自力で畑を全部耕して、家を修理したりするにはまだ幼い。イサカには弟がいるが、弟も貧乏でイサカ夫婦を支えることはできない。

それでもイサカは両足首を切断することを選んだ。手術後、壊疽はおさまらなかった。医者はイサカにあっさりと、「切除が不十分だったので、手術費用が払えるなら2回目の手術をする。急がないと死ぬ」と言った。ニジェールの医療者には、お金目当てで人の命を救う気持ちの薄い人が少なくない。イサカはこの医者の態度に絶望した。イサカの奥さんは泣き続けていた。

そこで医者を変えることにした。新しい医者は一度目の手術によりイサカの体内の血量が足りないので、2回目の手術の前に輸血が必要だと言った。 ただ病院にも血のストックは限られていたので、3人から献血が可能であれば手術をするという条件になった。村から3人が名乗り出て、病院で献血した。

2度目の手術では両足ひざ下を切断した。手術は成功した。

1週間の入院後、帰宅した際、両足を失ったイサカの姿を初めて見た奥さんは泣き出した。奥さんの反応にイサカもショックを受けた様子だった。お見舞いに来る親戚や住民が痛々しそうにイサカを見る。これもイサカにとって辛そうだ。

イサカは村で初めて、壊疽の生存者となる。これまで村人にとって壊疽は必ず死ぬ病気だった。それなのにイサカは死ななかった。これは村人に衝撃を与えている。この先、イサカが生き続けることで、新たに壊疽を患う住民にとって希望になるだろう。イサカは足を失ったが、ただ生き続けることで誰かを支えることができるようになった。ただ、それにはイサカがこの状況を受け入れる時間が必要だ。

そして、足を失った後のイサカの生活は大変だ。もう自力で畑を耕すことはできない。水を汲むこともできない。奥さんと子供たちを食べさせていかないといけない。昔は拡大家族ごとに畑を所有し、みんなで耕してみんなで収穫を分配していた。イサカのように自力で畑が耕せなくても、拡大家族の他のメンバーが耕してみんなで食べていけた。しかし、今のニジェールではこの拡大家族ごとの畑所有が解体し、個人所有になった。それに伴い、助け合いも消滅しつつある。このままいくと、イサカは物乞いになる可能性がとても高い。

物乞いも立派な生き方だが、何年もいっしょにいて私が知るイサカは、物乞いを好んで選ばないだろう。

ならば、イサカが食べていける道を、家族の中で役割を担っていく道を模索してみようと思う。足を失う=物乞いという村の当たり前に衝撃を与えるようなことを見つけてみよう。常識を打ち破るにはやけくそモードが一番良い。イサカがその気になったら、やってみよう。

それができたら、足が不自由だったり、足の切断に躊躇する住民にとって、イサカがまた希望になるかもしれない。

イサカは私たちNGOの中で、ファシリテーターとして数々の地域と関わってきたが、これから自身の生きざまで地域に影響を与える存在になっていく。これはファシリテーションのテクニック云々でマネできることではない。イサカはずっと貧乏だったので、困難には慣れている。きっとしぶとくやるだろう。

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